なぜ日本には1,100もの伝統色があるのか?~現代人にこそ必要な、違いを感じ取り、言葉にする力~

日本の1,100色 ― 感性が描いた千年の色譜
目次

あなたは「緑」をいくつ言えますか?

萌黄(もえぎ)、若草(わかくさ)、鶸(ひわ)、常磐(ときわ)、若竹(わかたけ)──。
どれも同じ「緑」なのに、微妙に表情が異なります。
萌黄は春の息吹、若草はやわらかな陽光に笑う草、常磐は凛とした冬の松。
その違いを、あなたはどこまで感じ取れるでしょうか。

日本には、古代から現代にかけて1,100を超える色の名前があるといわれます。
桜だけで十種類、茶色や鼠色に至っては百通り以上。
色を数えるというよりも、人生の機微を数えるかのようです。

なぜ日本人は、ここまで細やかに色を見分け、名を与えてきたのでしょうか。
その答えをたどると、見えてくるのは ── 単に「色の多い国」ではなく、
自然と共に生き、制約の中で美を見出してきた民族の記憶です。

光の変化を読み取るまなざし。
禁じられた色の代わりに、新たな美を創り出す知恵。
そして、わずかな違いに目を凝らし耳を澄ませ、
それを言葉にして、色に物語を与える感性。

日本の1,100色とは、絵の具の種類ではありません。
それは、日本人の観察の記録であり、感性の厚みそのものなのです。

自然が生んだ「千の色」― 四季が描く「光と影の劇場」

日本列島は、まるで一本の長い筆のようです。
北は雪の白、南は海の碧。
その筆が季節という絵の具をまとい、
春夏秋冬を描いてゆきます。

日本は南北に細長く、しかも湿度が高い国です。
そのため、光の角度や空気の水分量によって、同じ風景が一日のうちに何度も表情を変えます。
西洋画が影の濃淡で形を描くなら、日本人は光の移ろいをとらえて心を描いた民族でした。

春の「桜色」ひとつ取っても、淡桜(あわざくら)、灰桜(はいざくら)、桜鼠(さくらねず)……と十を超える呼び名があります。
満開の瞬間だけでなく、咲きはじめの薄紅、散りぎわの褪せた桃色、そのすべてに名前を与えずにはいられなかった。
散る花にまで色を与える ── これほど執念深い民族も、そうは多くないでしょう。

四季の風景を描いた水彩画。 春の桜、夏の竹林、秋の紅葉、冬の常緑樹が並び、 それぞれの季節を象徴する柔らかな色調で表現されている。
春・夏・秋・冬。 日本列島を一本の筆に見立てれば、四季はその絵の具。 光と湿度が織りなす微妙な色の移ろいが、日本人の感性を千年にわたり染めてきた。

平安時代の貴族たちは、その繊細な感性を衣に映しました。
いわゆる 「襲(かさね)の色目」
表と裏の布を重ね、桜、若菜、藤、紅葉など、草花の季節を色で表す装いです。
たとえば「桜のかさね」は、表が白、裏が薄紅。
咲く花と散る花びらを一着の衣で表現しました。

日本人にとって、四季とはカレンダーではなく、自然が綴る「光の詩集」のようなもの。
ページをめくるたびに新しい色が現れ、その微妙な移ろいに心を寄せる。
そうした感性こそが、後に千の色名を生む下地になったのです。

祈りが染めた「霊(ひ)の色」― 色は、神への祈りであり薬だった

古代の人々にとって、色とは飾りではなく祈りのかたちでした。
いまのように化学も医療もない時代、病や災いは見えない「何か」の怒りと考えられました。
だからこそ彼らは、光や火に宿る霊(ひ)を崇め、草木に宿る霊(たま)の力を信じて身を守ったのです。

衣を染めるという行為は、神に祈ることとほとんど同義でした。
平安時代につくられた『延喜式』には、染料の種類や配合比までが細かく記され、
藍=防虫・解毒、紅花=血行促進、鬱金(うこん)=抗菌など、
染料の多くが薬草としての効能を持っていました。
つまり、色は美と同時に医学の一形態でもあったのです。

赤い産着は魔除け、朱の鳥居は神域を示す結界。
人々は、色をただ「見る」のではなく、「信じて」いました。
目に見えぬ力が、赤や黄や藍の中に宿っていると。

当時の日本では、染めの美しさとは、
神の加護を少しでも受けようとする祈りそのものでした。
人々は、さまざまな色を組み合わせることで、
神へ捧げる祈りを調合していたのです。

古代日本の祈りと色の関係を表した放射状チャート。 赤・藍・鬱金・白・黒・紫の6色が円形に配置され、 中央には「祈・火・光」と記されている。
赤は魔除け、藍は解毒、鬱金は抗菌、白は浄化、黒は喪と再生。
古代の人々は、草木に宿る霊(ひ)の力を信じ、身にまとう色で祈りと願いを形にしていた。

そしてその感覚は、現代の日本人の中にもかすかに残っています。
初詣の赤い袴、厄除けの黄色いお守り、喪服の黒。
科学が進んだ今も、私たちは知らず知らずのうちに、
「色」に祈りを込めて生きているのかもしれません。

制度が育てた「位(くらい)の色」― 権威を可視化した、色の階級社会

色には、かつて「身分」が宿っていました。
聖徳太子が制定した冠位十二階(603年)では、冠の色によって役人の位を示しました。

最上位の「大徳」は深い紫。
紫は、当時もっとも高貴で、もっとも遠い色。
染めるには莫大な量の紫草が必要で、庶民には手の届かない「王の色」でした。

やがて平安時代になると、「禁色(きんじき)」という制度が生まれます。
それは、ある色を特定の身分以外の者が身につけることを禁じるという、
いわば「色のヒエラルキー」です。

天皇にだけ許された黄櫨染(こうろぜん)、皇太子のみに許された黄丹(おうに)。
この二色は、今なお皇室儀式の装束に受け継がれています。

冠位十二階を象徴する3人の人物が並ぶイラスト。 左の人物は紫の衣をまとい高位を示し、中央は赤、中位の官人、右は灰褐色の庶民の衣装を着ている。 背景には宮廷の建物が淡く描かれている。
色には、かつて「身分」が宿っていた。 聖徳太子の冠位十二階では、紫・青・赤・黄・白・黒の衣が位を示した。 人々はその制約の中で、似て非なる中間色を生み出していった。

面白いのは、こうした「色の独占」が逆に多様な色を生んだという皮肉な事実です。
人は「使うな」と言われるほど、似たようで違う何かを作り出そうとする。
禁じられた紫の代わりに灰を混ぜ、茶を足し、藍を重ねる。
やがて生まれたのは、千差万別の中間色 ──「似て非なる美」の文化でした。

  紫を禁じられた人々は、灰の中に紫を探した。

この時代、日本人は気づいたのです。
色は権威の象徴であると同時に、想像力の余白でもあることを。
そしてその感覚は、後の「四十八茶百鼠(しじゅうはっちゃ ひゃくねずみ)」や「粋」という美学へと受け継がれていきます。

制約が生んだ「粋の色」― 禁止令が、美意識を研ぎ澄ませた

江戸時代、幕府はたびたび倹約令を出しました。
庶民の贅沢を戒めるという名目ですが、要するに「目立つな」というお達しです。

赤、紫、金銀といった派手な色はご法度。
しかし、そこで日本人はひるみません。
むしろ、「地味の中でどう遊ぶか」を競いはじめます。

そうして生まれたのが、「四十八茶百鼠(しじゅうはっちゃ ひゃくねずみ)」。
「茶色」と「鼠色(ねずみいろ)」という、一見くすんだ系統の中でそれぞれ百を超える色を生み出しました。

利休鼠(りきゅうねず)、芝翫茶(しかんちゃ)、江戸茶(えどちゃ)、銀鼠(ぎんねず── 名前を並べるだけでも小粋なリズムがある。
そこには、「控えめの中に個性を滲ませる」という江戸っ子の流儀が息づいています。

彼らは、禁止された派手色の代わりに、中間色に感情を込めたのです。
茶の渋みには落ち着き、鼠の灰には気品、藍の深みには誠実。
華やかさではなく、「余韻」で勝負する。

こうした感覚は、まるでジャズの静かなソロに通じるものがあります。
一音一音を抑えながら、聴く者の想像力をかき立てる。

江戸時代の町並みを描いたイラスト。 木造の家々が並ぶ通りを、茶・鼠・藍など控えめな色の着物を着た人々が行き交っている。 落ち着いた光の中に「粋」の美意識が漂う。
倹約令によって、華やかな色が禁じられた江戸の町。
それでも人々は、茶や鼠、藍の中に個性と美を見出した。

浮世絵師たちもまた、この制約の中で色の奇跡を起こします。
限られた顔料と禁令の隙間から、「紅摺絵」「ぼかし摺」などの表現が生まれ、そこに「江戸の粋」が花開きました。

  色を奪われた時、日本人は「引き算の美」を発明した。

この選択こそ、日本文化の底に流れる美意識の根幹でしょう。
派手さを禁じられたとき、私たちは光と影のあわいを味わう民族になったのです。

名前が生んだ「詩の色」― 言葉が色に物語を与えた

葡萄(えびぞめ)、海松(みるいろ)、月白(げっぱく)──。
どの名前にも、声に出したくなるような響きがあります。
日本語の色名には、音の中に情景が宿っているのです。

色名の多くは、和歌や物語から生まれました。
『源氏物語』には「桜の薫る袖」や「紫式部」、そして「朽葉色(くちばいろ)」といった名が現れます。
それぞれの言葉の背後には、季節の変化と人の感性が重なり合っている。
日本の色は、単なる視覚情報ではなく、感情の断片なのです。

人は、言葉によって世界を形づくってきました。
「名づける」ことは、曖昧なものに輪郭を与える行為です。

でも「これは赤」「これは青」── それだけでは世界はまだ粗いままです。
けれど「これは紅梅」「これは浅葱(あさぎ)」と名づけた瞬間、
その色は、詩のように特定の季節や記憶、感情をまといはじめます。

西洋では、近代以降、色が光の三原則や数値によって体系的に整理されていきました。
それに対して日本の色彩は、言葉と感性によって築かれた詩的な体系といえるでしょう。
科学ではなく、共感がその秩序をつくったのです。

  言葉は、色に与えられたもう一つの命。

その命を育ててきたのが、日本語という「音の器」でした。
名を持つことで、色は物語をまとい、その物語と共に時代を越えて語り継がれます。
だからこそ、千年前の色名を聞くとき、私たちはその時代の空気と気配までも感じ取ることができるのです。

和紙の上に淡い青と茶の水彩が滲む日本画風のイラスト。 枝葉の墨線が流れ、背景には柔らかな光と影が差し込む。 静けさと詩情を感じさせる構図。
色名は、ただの記号ではない。
「朽葉色」には秋の余韻が、「月白」には夜明けの気配が宿る。
言葉が色に物語を与え、千年の記憶をつないできた。

そして現代へ、色が1,100に達した理由 ― 科学と記憶が、色を再構築した

時代は下り、1978年。
DICグラフィックス社が『日本の伝統色』を刊行しました。
初版では260色、改訂を重ねた第8版では300色が収録されています。
さらに「和色大辞典」などのオンライン辞典では465色

しかし、文献や染織資料、古典文学に記された色名をすべて重ねていくと、
その数は1,100を超えるといわれます。
色は単なるインクや顔料の見本ではなく、
日本人が千年以上かけて名づけ、受け継いできた「記憶の総数」なのです。

現代の色見本帳は、失われかけた文化の復元装置でした。
科学の正確さを借りて、かつての感性を数値化する。
RGBやCMYKといった記号の中に、
「若菜」や「藤鼠(ふじねず)」の物語を閉じ込めようとする試みです。

DICは、「中国の伝統色」や「フランスの伝統色」シリーズも刊行しました。
でも、1,000色を超える体系を持つのは日本だけです。

それは偶然ではありません。
自然の移ろいを感じる目、祈りに色を託す心、
権威に抗う粋、そして言葉が育んだ感性 ──
これらすべてが折り重なった結果
です。

  日本の1,100色は、千年の時をかけて編まれた「色の物語集」である。

そのページをめくるたび、
私たちは過去の誰かの眼差しを追体験しています。
桜に心をときめかせた人、
夕暮れの藍に別れを悟った人。
彼らが名づけた一つひとつの色が、今も私たちの暮らしの中で呼吸をしているのです。

千の色が、千の眼差しを生む

人々は、光の微妙な移ろいにそれぞれの名を与えることで、この世界を立体的に理解しようと努めてきました。
日本の数多くの伝統色とは、細部を愛する心が描いた感性の地図なのです。

明日、通勤電車の窓から見える木々を眺めてみてください。
そこに広がるのは、「ただの緑」ではありません。
萌黄(もえぎ)、常磐(ときわ)、青磁(せいじ)、柳鼠(やなぎねず)──
それぞれの物語が隠れています。

効率を求めるあまり、私たちは「ただの緑」で済ませてきました。
でも、世界は本当はもっと豊かなはずです。

色の違いに目を凝らすことは、立ち止まる勇気を持つこと。
速く走ることではなく、深く見ることを選ぶこと。

あなたが一つの色に気づいたとき、
それは忙しさに奪われていた「感じる時間」を取り戻した瞬間です。

参考文献・出典一覧

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この記事を書いた人

「日本リテラシー」の専門家・ナビゲーター。
「世界はなぜでできている」「豊かな日本を築いた名もなき功労者たち」編集長兼コンテンツライター。
翻訳・調査・Webマーケティング専門会社の経営者として25年以上にわたり、企業・官公庁向けにサービスを提供。
日本文化・歴史・社会制度への深い理解をもとに、読者が「なるほど」と思える知的体験をお届けします。

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