なぜ秋になると木の葉は赤や黄色に変わるのか?~植物たちの一年最後の晴れ舞台戦略~

黄金色と赤に染まった並木道が続く秋の風景。地面には落ち葉が敷き詰められ、光が差し込む幻想的な紅葉トンネル。
目次

毎年恋しくなる、あの黄金色の並木道

毎年の秋、私は家族や友人と神宮外苑のイチョウ並木を歩くのを楽しみにしてきました。
黄金色の葉が一斉に輝き、まるで並木道全体が大きな毛布を空に広げたように、私たちを包み込んでくれたものです。

ところが、ここ数年、その光景に変化が見え始めました。
以前は厚みのある葉が枝を覆い、ふっくらとした丸みを帯びていたのに、最近はどこか痩せて見えるのです。
葉先は黄色に染まる前に茶色く枯れ、枝がむき出しになることもあります。
かつて「黄金のトンネル」だった道が、今では「歯抜けの櫛」のように隙間ばかりが目立つこともあります。

秋といえば紅葉。
けれど考えてみれば不思議です。

なぜ木の葉は秋になると緑を失い、赤や黄色へと姿を変えるのでしょうか。
そして今、なぜその紅葉が変わりつつあるのでしょうか。

この素朴な「なぜ?」に耳を澄ますと、植物たちの一年最後の晴れ舞台の裏側に、科学と文化、そして私たちの未来までもが映し出されていることに気づくのです。

植物たちの「衣替え」の仕組み

紅葉の色は大きく二つに分かれます。
ひとつは赤やオレンジ、もうひとつは黄色です。
実はこの二色、同じように見えても、舞台裏ではまったく違うシナリオが用意されています。

黄色系 ― 隠れていた脇役の登場

夏のあいだ、葉の表面を彩っているのはクロロフィル(葉緑素)です。
あの鮮やかな緑色は、光合成という大仕事をこなすための「厚化粧」のようなもの。
ところが秋になると、その化粧がきれいに落とされていきます。
つまりクロロフィルが分解されるのです。

では、その下から何が現れるのでしょうか。
カロテノイド(カロテンやキサントフィル)と呼ばれる黄色からオレンジ色の色素です。
普段は緑の化粧に覆われて目立ちませんが、クロロフィルが退場すると一気にその素顔が現れるのです。

緑のイチョウの葉が黄色に変化する様子を示した図解。クロロフィルが分解され、カロテノイドが現れる過程を表している。
緑から黄へ──クロロフィルが分解され、隠れていたカロテノイドが現れる。

まるで厚化粧を落としたあと、隠れていた柔らかな肌の色がふっと浮かび上がるようなもの。
それが黄色系の紅葉の正体です。

赤・オレンジ系 ― 新しく作られる衣装

一方、赤やオレンジの葉はちょっとドラマチックです。
こちらは隠れていたのではなく、「新しく作られる」色です。
アントシアニンという赤い色素が、秋になると葉っぱの中で合成されます。

「もうすぐ落ち葉になるのに、なぜわざわざ衣装を新調するのだろう?」と疑問に思いませんか。
でもこれは、植物のしたたかな戦略なのです。

アントシアニンは紫外線を防ぎ、余分な光を遮る「サングラス」のような役割を果たしている可能性があります。
さらに糖を葉に引き止め、最後までしっかり栄養を枝や根に送り返す助けになるとも考えられています。

緑のモミジの葉が赤色に変化する様子を示した図解。クロロフィル分解後にアントシアニンが新たに合成される過程を表している。
緑から赤へ──秋にアントシアニンが新しく作られ、鮮やかな紅葉となる。

まさに「散り際まで美しく、しかも実用的」
歌舞伎役者顔負けの粋なふるまいです。

こうして見ると、黄色は「緑の化粧を落として現れた素顔」、赤は「最後に用意された晴れ着」と整理できます。
つまり紅葉は、単なる色の変化ではなく、植物たちの緻密な生存戦略が織りなす「計算された美」なのです。

日本人の心を捉えた「散りゆく美」

紅葉は、ただ色鮮やかに染まるだけでなく、やがて散ってゆくからこそ人の心を打ちます。

花でいえば桜は「潔く散る」ことに美があるとされましたが、紅葉は少し違います。
緑から黄へ、赤へと少しずつ装いを変え、最後にはひらひらと地に舞い落ちる。
そのゆるやかな移ろいの時間こそが、日本人の感性を深くとらえてきました。

古人もこの「散りゆく美」を繰り返し歌に詠み込みました。
『万葉集』では鹿の声に哀しみを重ね、『古今和歌集』では池の底に映る紅葉に心を寄せています。
彼らにとって紅葉は、単なる秋の景色ではなく、「人生の黄昏」を思わせる鏡だったのです。

桜と紅葉は、よく対比されます。
桜は「武士の死にざま」のように潔い。

紅葉はむしろ「平安貴族の恋愛劇」のように、最後まで逡巡し、色を変え、余韻を残す。
どちらも人の心を映す鏡ですが、紅葉には「時間の重み」を見せる静かな深さがあります。

紅葉の下で和歌を詠む平安時代の公家たち。雅やかな衣装をまとい、秋の自然を楽しむ場面を描いたイラスト。
紅葉を愛で、和歌に託す──平安時代から続く「もののあはれ」の心。

やがて人々は、紅葉を見ること自体を楽しむようになります。
紅葉狩り(もみじがり)です。

狩るといっても刀や弓を持って山に入るわけではなく、ただ眺めて愛でる。
なんとも平和的な「狩り」ではありませんか。
けれどもその「狩り」こそが、移ろうものを慈しむ日本人の美意識をよく物語っています。

紅葉の色彩に感じ取ったのは、ただの鮮やかさではなく「もののあはれ」でした。
散りゆく葉に人生を重ね、はかなさの中にこそ美を見出す。
その感覚は、千年以上たった今でも、私たちの心の奥底で変わらず響いているのです。

変わりゆく秋の風景 ― 気候変動が奪うもの

紅葉は毎年変わらぬもの ── そう信じたい気持ちはあります。
けれど現実は、そうではありません。
近年の秋は、赤や黄に輝く前に茶色く枯れてしまう葉が目立つようになりました。
せっかくの晴れ舞台なのに、照明が当たる前にカーテンが閉じてしまうようなものです。

その背景には、気候変動があります。
猛暑が長引き、夜の冷え込みが足りないと、アントシアニンは十分に作られず、紅葉は鮮やかさを欠いてしまいます。

さらに都市部ではヒートアイランド現象や大気汚染も加わります。
木々にしてみれば、「わたしは秋の女優よ」と言いたいところなのに、照明係(=環境条件)が空気を読まずに邪魔をしているのです。

観光地にとっても悩ましい事態です。
「紅葉は来週が見頃です」と予報したのに、いざ山に登ってみると茶色のカーテンコール。

観光客はがっかりし、地元の人は頭を抱える。
気象庁でも「桜前線」は予測できても、「紅葉前線」はなかなか手強い。
気まぐれな役者にスケジュール表を渡そうとしているようなものです。

そして何よりも大きな問題は、「季節感」の喪失です。
春の桜、夏の蝉時雨、秋の紅葉、冬の雪景色。
これらは日本人の時間感覚を刻む柱でした。

そのひとつが失われれば、私たちの生活リズムや心の風景にも影が差します。
便利さと引き換えに、気づけば「四季の時計」が狂っていく。
これは単なる自然現象の変化ではなく、文化そのものを揺るがす出来事なのです。

左は赤や黄色に鮮やかに色づいた紅葉の木、右は茶色く枯れた葉が目立つ木を並べて描いた比較イラスト。
鮮やかな紅葉と、茶色く枯れた葉──気候変動が秋の色を左右している。

それでも愛でたい、秋の色

たとえ紅葉の姿が変わろうとも、私たちはなお、その色に心を寄せます。
鮮やかな赤や黄金に出会えれば歓声をあげ、茶色が混じっても「今年は今年の表情だ」と受けとめる。
日本人の紅葉愛は、環境の変化に簡単に揺らぐものではありません。

実際、古今の文学に紅葉が繰り返し詠まれてきたのも、その色が「美しい」からだけではありません。
「移ろいゆくものに心を寄せる」姿勢そのものが、日本人の感性を支えてきたのです。

紅葉が赤くても黄色でも、あるいは少し色褪せていても。
そこに「もののあはれ」を見いだす眼差しがあれば、美は生き続けます。

だからこそ、この感性を次の世代に残すことが大切です。
紅葉狩りは単なるレジャーではなく、自然と人との約束のようなもの。
親から子へ、師から弟子へと伝えられた「季節を愛でる心」は、スマートフォンのカレンダーには決して表示されません。

四季の色を追いかけることは、自分たちの時間を大切にすることでもあります。
紅葉の美しさを味わうという行為は、変わりゆく世界の中で「人間らしく生きる術」を静かに教えてくれているのです。

参考文献・出典一覧

Xで発信

📣 最新情報はX(旧Twitter)でも発信中!
Xでフォローする @nazeproject

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

「世界はなぜでできている」編集長兼コンテンツライター。
「日本リテラシー」の考案者・専門家・ナビゲーター。
翻訳・調査・Webマーケティング専門会社の経営者として25年以上にわたり、企業・官公庁向けにサービスを提供。
日本文化・歴史・社会制度への深い理解をもとに、読者が「なるほど」と思える知的体験をお届けします。

目次