なぜ日本のクリスマスは「KFC」なのか?~「ファストフード」を「ハレのご馳走」に書き換えた、日本流の編集力~

雪の降る日本の夜、窓辺のテーブルに置かれたフライドチキンとケーキ。
目次

なぜ、クリスマスに「カーネル・サンダース」なのか?

12月26日の朝。 街からジングルベルが消え、
一気に「年末の慌ただしさ」へと空気が変わります。
ツリーは片付けられ、スーパーには鏡餅やしめ飾りが並び始める。
この鮮やかな切り替えの早さに、ある種の感慨すら感じます。

さて、以前海外の友人からこう尋ねられました。
「なぜ日本人はクリスマスに、ジーザスではなくKFCを祝うんだ?」

キリスト教圏の人々にとって、クリスマスは一年で最も神聖な日のひとつであり、
ターキー(七面鳥)などの「伝統的なご馳走」を囲んで、家族と静かに過ごすのが一般的です。

聖なる日に「日常食であるファストフード(フライドチキン)」を求めて行列を作る日本人の姿は、
彼らにはとても奇妙に映るのです。

そのときはこう答えました。
「多くの日本人は、KFCを “Kentucky For Christmas” の略だと勘違いしてるんだよ」

もちろんこれはジョークですが、あながち的外れでもありません。
この「都合のいい誤読」こそが、日本人の特殊能力でもあります。
外から来た文化を、本来の意味にとらわれず、
自分たちが受け入れやすい形に大胆に「編集」してしまう
からです。

では、この奇妙な習慣の裏にある日本流の「編集力」を、
クリスマスを題材に紐解いてみましょう。

米国本社も驚いた?「嘘から出た誠」の現場判断

そもそも、「クリスマスにはケンタッキー」という習慣は、
米国本社の戦略ではありません。
1970年代、日本KFCの黎明期に、現場の店長(後の社長・大河原毅氏)が仕掛けた
独自のキャンペーンが発端です。

きっかけは、店舗に来た外国人客の一言だったと言われています。
「日本ではターキー(七面鳥)が手に入らないから、
代わりにフライドチキンでクリスマスを祝うことにしたよ」

この一言が、突破口になりました。
「そうか、ターキーがないなら、チキンでいいじゃないか」

これは日本文化のお家芸である「見立て(Substitution)」の発想そのものです。
枯山水が水を使わずに石で「水」を表現するように、
日本人は「本物がないなら、似たもので代用し、そこに新たな意味を見出す」ことに長けています。

もし当時、日本側が「本場のクリスマスを忠実に再現しなければならない」という
原理主義に陥っていたら、この国民的行事は生まれていなかったでしょう。

「七面鳥がない」という欠落を、
「チキンで代用する」という柔軟な発想で埋めたことが、すべての始まりでした。

きなフライドチキンの背後に、いたずらっぽく笑う七面鳥(ターキー)の影絵が映し出されている、コミカルな手描きイラスト。
「本物じゃなくても、気分はターキー」。そのユーモアが、新しい文化の始まりだった。

教義(Dogma)を捨て、機能(Function)だけを抜き出す

それにしてもなぜ、独自の習慣がここまで定着したのでしょうか。
それは日本社会が、宗教的な「教義(Dogma)」そのものではなく、
「祝祭(ハレの日)」という「機能(Function)」だけを抽出して実装したからです。

日本には、外部の文化や宗教を受け入れる際、その教義的な背景を一旦脇に置き、
形式だけを「機能」として取り込む特徴があります。

クリスマスの宗教的な文脈(キリストの降誕)をそのまま受け継ぐのではなく、
「家族の団欒」「大切な人との時間」という、
万人に共通する「祝祭の器」として再定義したのです。

これは宗教的な是非というよりも、
「形式と機能を切り分ける」という、極めて実利的な社会システムの特性と言えます。

教義に縛られないからこそ、この国ではチキンを頬張り、
ケーキを楽しみ、その一週間後には神社へ向かうという光景が成立します。
この柔軟さは、あらゆる異文化を摩擦なく取り込むための、
日本独特の緩衝材なのです。

クリスマス風の豪華な箱を開けると、中からこたつでフライドチキンを楽しむ日本の家族の賑やかな様子が飛び出しているコミカルなイラスト。
立派な外側(形式)を開けたら、中身はいつもの楽しい「機能」だった。

翻訳(Translation)ではなく、再編集(Editing)する力

この現象をビジネスの視点で見直すと、重要な示唆が見えてきます。
それは、「ローカライズの本質は、翻訳ではなく『再編集』である」ということです。

多くの企業が陥りがちな罠は、
自国の成功体験をそのまま「翻訳」して持ち込もうとすることです。
しかしKFCの事例が教えるのは、現地の文脈(Context)に合わせて、
商品の「意味」そのものを書き換える必要性です。

米国において、KFCはあくまで「日常の食事」です。
しかし日本では、それを「ハレの日のご馳走」「家族団欒の象徴」へと、
意味を再定義(Re-contextualize)しました。
物理的な商品は同じでも、顧客が受け取る「意味」を劇的に変えたのです。

これこそが、日本流の「編集力」です。
あるものを、そのまま受け入れるのではなく、自分の文脈に合わせて読み替える。
オリジナルを尊重しつつも、自分たちの使いやすい形に最適化してしまう。

この「編集力」こそが、リソースの少ない島国が生き残るための知恵だったのではないでしょうか。

ベルトコンベアに乗った普通のチキンが、「日本編集」と書かれたゲートを通過すると、豪華なクリスマスパーティ用チキンに変身して出てくるコミカルなイラスト。
輸入したものをそのまま出さず、ゲートを通して「ハレの日仕様」に書き換える。これぞ日本流の編集力。

祭りのあと、次の「編集」へ

宴の熱気が引いた静けさの中で、ふと思います。

あのKFCの空き箱は、単なる宴のあとではありません。
それは、外来の文化さえも自分たちの文脈で「再定義」してしまった、
この国のたくましさの証左です。

形式を借り、機能を抽出し、自分たちの暮らしに最適化する。
この高度な「編集力」がある限り、
どのような異文化や変化が訪れようとも、
日本社会はそれを糧にして生き延びていくのでしょう。

ふと見れば、街はもう次の「書き換え」を始めています。
さて、私たちも次へ進みましょうか。
編集作業は、まだまだ続くのですから。

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この記事を書いた人

「日本リテラシー」の専門家・ナビゲーター。
「世界はなぜでできている」「豊かな日本を築いた名もなき功労者たち」編集長兼コンテンツライター。
翻訳・調査・Webマーケティング専門会社の経営者として25年以上にわたり、企業・官公庁向けにサービスを提供。
日本文化・歴史・社会制度への深い理解をもとに、読者が「なるほど」と思える知的体験をお届けします。

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