なぜ虹の色は、日本では7色、アメリカでは6色、ドイツでは5色なのか?~言語と文化が変える世界の見え方~

雨上がりの山と草原に架かる美しい虹のイラスト
目次

虹は七色ではない?── 色の数が国によって違う、驚きの文化差

子どもの頃、雨上がりの空に虹を見つけて、
「赤、橙、黄、緑、青、藍、紫」と指を折りながら数えた記憶はありませんか?
日本人にとって虹は「七色」── これは疑いようのない常識です。

ところが、世界に目を向けると、
この常識がまったく通用しない国があるのです。

アメリカやイギリスでは虹は「六色」、ドイツでは「五色」、
アフリカのある部族では「三色」。

古代ギリシャの哲学者アリストテレスも虹を「三色」と記し、
かの天才ニュートンでさえ、一時期は「五色」と考えていました。

同じ空の同じ虹を見ているのに、なぜこんなにも違うのでしょうか?

この謎を解く鍵は、私たちの「言語」と「文化」にあります。
虹の色の数は、実は物理的な真実ではなく、
私たちの言語と文化が生みだした「解釈」なのです。

今回は、この虹の色の数え方の違いから、
人間が世界をどのように「見ている」のか、
その不思議と学びに迫ります。

虹の色は連続している ──「七色」は人間が勝手に区切っただけ

まず、少し冷静な話をしましょう。

虹は、太陽光が空気中の水滴によって屈折・反射されることで生じる現象です。
光は波長によって屈折率が異なるため、白色光が水滴を通過する際に、
波長ごとに分かれて色の帯として見えます。

ここまでは中学の理科で習った通りです。

さて、ここからが本題。

虹の色は、実は連続的なグラデーションです。
赤から紫まで、色は途切れることなく滑らかに変化しています。
「ここまでが赤で、ここからが橙」。
そんなおせっかいな境界線は、自然界のどこにも引かれていません。

にもかかわらず、私たちは虹をきっちり「七つの色」に分けて認識しています。

これはつまり、人間が勝手に線を引いているということです。
まるで、流れる川に「上流」「中流」「下流」と名前を付けるように、
私たちは連続する色の帯に名前をつけ、区切りをつけて理解しようとします。

地図に国境線を引くように。
ケーキを切り分けるように。

そしてこの「切り分け方」こそが、文化によって驚くほど違うのです。

国によって違う虹の色の数 ── 文化が色を「作る」

それでは、世界の人々は虹を何色と見ているのでしょうか。

アメリカ・イギリス:六色

英語圏の多くの国では、虹は六色です。

赤(red)、橙(orange)、黄(yellow)、緑(green)、青(blue)、紫(purple)。

日本人が当然のように区別する「青」と「藍」の境界が、
英語話者にはそもそも存在しません。
英語には「藍色」に相当する日常語がないのです
(indigoという単語はありますが、これはほぼ専門用語。
普段の会話で使う人はまずいません)。

ドイツ:五色

ドイツではさらに減って、五色または六色です。

ドイツ語では「橙色」を表す独立した基本色名が英語ほど一般的ではなく、
「オレンジ」(Orange)は外来語扱いされることもあります。
つまり、赤と黄の間にある色を、
わざわざ一色として数えないこともあるわけです。

アフリカ・一部の先住民族:三色〜四色

ここからがさらにおもしろい。

アフリカのバッサ語を話す人々や、一部の先住民族の言語では、
色を表す基本語彙そのものが非常に少ないのです。
虹を三色や四色として認識する文化もあります。

彼らは「暖色系」「寒色系」「暗い色」といった、
大まかな区分で色をとらえます。
まるで、細かい住所ではなく「東側」「西側」で場所を示すように。

虹を見上げる3人の後ろ姿のシルエットを描いた水彩画風イラスト
このイラストでは、日本人と欧米人とアフリカ人が同じ虹を見ているが、彼らが実際に認識している色の数は異なっている。

古代ギリシャ:三色

そして、時間を遡ればもっと驚きます。

哲学者アリストテレスは、虹を赤、緑、紫の三色と記述しました。
古代ギリシャ語には、現代のような細かい色名がそもそも存在しなかったのです。

さらに興味深いのは、ホメロスの『イリアス』や『オデュッセイア』には
「青」を表す語がほとんど登場しないという事実です。

あの広大な地中海を描写するのに、ホメロスは海を「ワイン色」と表現しました。
空の色についての記述も、驚くほど乏しい。

青い海、青い空 ── 私たちには当たり前のこうした表現が、
古代ギリシャ人には存在しなかったのです。

ニュートンと「七色」の誕生 ── 科学と神秘主義の奇妙な結婚

では、なぜ日本では虹が「七色」なのでしょうか?

この「七色」という概念を広めたのは、
万有引力で有名なアイザック・ニュートンです。

1665年、ニュートンはプリズムを使った実験で、
白色光がいくつかの色に分かれることを発見しました。

彼は当初、虹を五色(赤、黄、緑、青、紫)と考えていました。
ところが後に、これを七色(赤、橙、黄、緑、青、藍、紫)へと修正します。

なぜ七色に修正したのか?

実は、ここには科学的根拠はほとんどありませんでした。

ニュートンは、音階が七音(ドレミファソラシ)であることに着目し、
「ならば色も七つであるべきだ」と考えたのです。

当時のヨーロッパでは、「七」は完全性を象徴する神聖な数字でした。
一週間は七日、天体は七つ(太陽、月、水星、金星、火星、木星、土星)。

万有引力を発見した天才科学者の頭の中に、
まだ中世の神秘主義がしっかりと居座っていたわけです。

こうして生まれた「七色」という概念は、
やがて西洋の教育制度という強力な配達網を通じて世界中に広まりました。
明治時代に西洋の科学を熱心に学んだ日本も、
疑うことなくこの「七色」を受け入れ、今日に至っているというわけです。

つまり私たちが「常識」として信じている虹の七色は、
17世紀のイギリス人科学者の、音楽と数秘術への情熱の産物なのです。

17世紀の書斎でプリズム実験を行うアイザック・ニュートンのイラスト
アイザック・ニュートンは音階が七音であることに着目し、虹の色も七つであるべきだと考えた。科学者の中にも、中世の神秘主義が残っていたのだ。

言語が色の認識を決める ──「青」と「緑」の境界線

ここで一つ、興味深い実験をご紹介しましょう。

言語学者たちは、長年こんな問いに取り組んできました。
「言語が違えば、色の見え方も変わるのか?」

その答えは ── 驚くべきことに ──「イエス」でした。

日本語の「青」と「緑」

日本人なら誰もが口にする「青信号」。

でも、ちょっと待ってください。
信号機の色、どう見ても「緑」ですよね?
なぜ私たちは「青」と呼ぶのでしょうか。

実は、古代日本語には「青」と「緑」の明確な区別がそもそもありませんでした。
「あお」という言葉は、青から緑にかけての広い範囲の色を指す、
実に大らかな色名だったのです。

緑色に光る信号機と横断歩道を渡る人々を描いた日本の街角のイラスト
日本語では明らかに緑色の信号を「青信号」と呼ぶ。古代日本語では「青」が青から緑までの広い範囲を指していた名残だ。

今でも私たちは「青々とした草木」「青物」と言います。
どちらも明らかに緑色なのに。
これは、かつて「青」が緑色も抱え込んでいた時代の名残なのです。

詳しくは、「なぜ信号は緑色なのに「青信号」と呼ばれているのか?」の記事をご覧ください。

英語とロシア語の「青」

さらに面白いのは、英語とロシア語の比較です。

英語では、空の青も海の青も、淡い青も濃い青も、
すべて「blue」の一言で片付けられます。
実にシンプル。

ところがロシア語は違います。
明るい青(goluboy)と暗い青(siniy)は、
まったく別の色として認識され、別々の基本色名を持っているのです。
ちょうど日本語で「赤」と「ピンク」が別物であるように。

言語学者の実験によれば、ロシア語話者は明るい青と暗い青の区別を、
英語話者よりも速く正確に行うことができるそうです。

つまり、こういうことです。

私たちが話す言語が、世界の見え方を左右している。
目が違うのではなく、脳の中にある色の引き出しの数が違うのです。

世界は「見えるがまま」ではない ── 認識の相対性

虹の色の数が文化によって違う。
一見些細なこの事実は、実は私たちに重要な教訓を教えています。

それは、世界は「そのままの姿」で私たちの前に転がっているわけではない、
ということです。

私たちは、自分が話す言語、育った文化、学んだ知識という色眼鏡を通して、
世界を「構築」しています。

虹を見るとき、私たちは単に光の波長を受動的に感知しているのではありません。
「七色」という文化的な枠組みを持ち出して、虹を「読み取って」いるのです。

まるで、同じ料理を食べても、
育った食文化によって「美味しい」の基準が違うように。

18世紀の哲学者カントは、こう言いました。

「物自体」は決して知ることができない。
私たちは常に認識の枠組みを通してしか世界を見ることができない、と。

虹の色の数という、一見どうでもよさそうな問題は、
実はこの深遠な哲学的問いに直結しているのです。

文化の違いを知ることの意味

「アメリカ人には虹が六色に見える」

この事実は、私たちに異文化理解の本質を教えてくれます。

他国の人々は、単に言葉が違うだけではないのです。
彼らは文字通り、別の世界を見ている。

同じ風景を前にして、異なる色の数を数え、
異なる時間の流れを感じ、異なる距離感で人と接している。

色の認識から、時間の感覚、空間の捉え方、人間関係の理解まで。
文化が異なれば、世界の見え方も変わります。

国際化が進む現代において、この視点は極めて重要です。

どちらかが「間違っている」のではなく、「違う世界を見ている」。
そう理解することが、真の相互理解への第一歩なのです。

そしてそれは、相手を「正す」のではなく、
相手の目で世界を見直すことから始まります。
いわば、相手の眼鏡を借りて世界を眺めるように努める必要があるのです。

地球を囲んで立つ多様な人々のシルエットを描いたイラスト
文化が異なれば、世界の見え方も変わる。他国の人々は単に言葉が違うだけではなく、文字通り別の世界を見ているのだ。

「当たり前」を疑う目 ── 日常に潜む文化の痕跡

虹の色の数という、何の変哲もない話題から、
意外なほど大きな発見にたどり着きました。

私たちが「当たり前」だと信じて疑わないことの多くは、
実は文化という名の色眼鏡を通して見た世界である。

この気づきは、日常生活のあらゆる場面に応用できます。

なぜ日本人は「すみません」を感謝の言葉としても使うのか?
なぜ日本の住所は「東京都→渋谷区→…」と大きい単位から始まるのか?
なぜ私たちは年齢を重視し、敬語を細かく使い分けるのか?

こうした問いに答えることは、自分自身の文化を相対化し、
より深く理解することにつながります。
そして同時に、他者の文化への敬意も生まれるのです。

次に虹を見かけたら、ぜひ思い出してください。

あなたが見ている七色の虹は、物理的な真実ではありません。
あなたが日本語を話し、
日本の文化の中で育ったからこそ見えている「七色」なのだということを。

そして、世界のどこかで同じ虹を見ている人が、
それを六色、あるいは三色として認識しているかもしれないということを。

彼らは間違っているのではありません。
ただ、違う窓から世界を見ているだけなのです。

世界は、私たちが思っているよりもずっと多様で、それゆえに豊かなのです。

参考文献・出典一覧

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この記事を書いた人

「日本リテラシー」の専門家・ナビゲーター。
「世界はなぜでできている」「豊かな日本を築いた名もなき功労者たち」編集長兼コンテンツライター。
翻訳・調査・Webマーケティング専門会社の経営者として25年以上にわたり、企業・官公庁向けにサービスを提供。
日本文化・歴史・社会制度への深い理解をもとに、読者が「なるほど」と思える知的体験をお届けします。

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